速読の弊害

 僕は、頭が良くて、がんばりやな人が好きだ。高校1年生のとき、例にもれずそういう女の子を好きになってしまった。その子が、「速読」というものに興味があるらしいことをしって、僕は、そういう中途半端な決意で「速読」にチャレンジすることにした。古本屋で「本を読むスピードが●●倍になる方法」といったたぐいの本を何冊か買い、その中にあるトレーニングをやってみた。

 しばらく続けたが、どうも、実感がわかない。どうやら、本のなかに案内があるセミナーとやらにいけばみにつくということらしいが、とうぜん、そんなお金はない。なので、本のとおりのやり方でやり続けた。

 そして、気付いたときには、高校1年生の暇な時間の大半をこれに費やしていた。しかし、ぜんぜん身についていない。

 結局、僕は、あきらめた。きづいたら、高校1年生の空き時間の大半をコレに費やしていた。そして、コレは、「好きな女の子が興味があるようだから」といったような中途半端な覚悟と、僕のような中途半端な脳みそでは、時間の無駄なんだなということがわかった。

音声化せず、イメージから意味を取り出すという手法の弱点

 速読に関する、何冊の本を読んでみて、速読のポイントとして挙げられている中に、「頭の中で文字を音声化しない」というのがあった。

 しばらくやっていると、他のトレーニングはできないけれども、これは、比較的簡単にできた。ようするに、文字を絵のように認識して、それを直接脳に送り込む。字の音を取り出して、その音から意味を取り出すのではなく、字の形から直接意味を取り出すという仕組みだ。

 最初は、意味がわからない絵の羅列のようにみえるけども、知っている文章をなんども眺め、文字の形で意味がわかるようになると、だいぶ、早く文章が把握できるような気がしてきた。


 しかし、言葉というのは、原始的に音。生まれて最初に覚えるのは、ほとんとの人が、音としての言葉。やはり、音の記憶のほうが強いのだろう。いっときイメージから直接意味を取り出せるようになっても、訓練していないとすぐに、それができなくなるだろう。イメージの意味というのは忘れやすいのだと思う。

 中途半端に訓練すると、昔イメージから直接意味を取り出せるような気がしたときの目の動かし方だけ残る。そして、文字をイメージとしてだけ捉える読書をしてしまうと思う。僕はさっきまで、この状態にいた。文字をイメージだけで捉え、意味は把握していなかったと思う。

 たぶん、この5年間ずっと、文字をイメージとしてだけ捉え、意味がわからぬまま文をなぞる読書をしてしまっていた。(よく、大学合格したものだと思う)最近、本を読んで、深い感銘を受けることが少なくなっていたのもこのせいなのかもしれない。

 きょう、識字についての本を、読んでいて、久しぶりに頭の中に音が戻ってくる感じがした。頭の中を記憶したい音で満たし、もっと、人の書いた言葉を大切に読みたい、そう思った。

大沢敏郎「生きなおす、ことば」

アイヌ民族は)伝えられた用件や意思を忘れないために、伝えられたときのまわりの天候や風景や情景もごく自然に体感し、脳裏にやきつけて、すべてのことを記憶していくのではないか。

 ・・・(中略)・・・

それらの場面や人のことを忘れないために、何度も何度も反芻し、記憶を蘇らせていくのだろう。

 ・・・(中略)・・・

文字を媒介としない全身の記憶は、それらのことをいつも想いうかばせ、反芻させているのだと思う

まとめ

  • 速読は、中途半端な覚悟では、時間の無駄。
  • 速読は、もともと頭のよい人じゃないとできないと思う。
  • 速読は、中途半端にやめると、本を読めなくなる。