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禅宗との出会い

 僕は、これまで、死について考えることについて大変、面倒がくさいと考えてきた。答えは死ぬまで分からないし、長く深く考えて、ある一定のしっくりくる答えが見えたとしても、それは自分だけの考え方であって、周りの人たちが死について述べた発言(あとは、歌や詩の中でさりげなく歌われる死生観)との乖離にいちいち違和感を感じなければならなくなる。死後の世界や輪廻といった考え方は、科学といったすごくしっくりくる法則からはなかなか導きだせない。

 だから僕は、死について、選択的に、わざと考えることを避けてきた。いろいろ人のいろいろな死生観を冷静に受け止め、その死生観を背景に語られる発展的な意見に耳を傾けられるように。そして、怪我して痛い、病気して苦しい、年をとって億劫だ。そういう「いやなもの」の延長としての死、そういうものと向き合ったときの苦しみから逃げるために。

 宗教というものの大きな目的の一つに、そういう恐怖をどうやって取り除くのか、というものがあると思う。

 死の恐怖から人を開放するため、宗教は様々な手法を生み出してきた。編み出してきた。

 一つは、「霊界」、「死後の世界」、「魂が解放された世界」といったものが存在するとし、人の魂は死ぬとその場所に行くというものだ。死んでもなお、自分の精神は生きつづけると思うことにより、死を単なる通過点としてとらえ、死の恐怖からの解放を目指す。

 また、輪廻という考え方もある。人は死んだあとまた、この世で生きつづけると思うことにより、この考え方もまた、死を単なる通過点としてとらえ、死の恐怖からの解放を目指す。

 あるきっかけて、日本である程度知れ渡っている宗教について、wikipediaで眺めていたら、僕の認識としては新しい、死の恐怖からの解放をうたった手法があった。

 禅宗のそれであった。禅宗では、人の体と精神は一体だとし、霊魂を否定する。それは、生に対して執着しないためだ。オーラの泉的な世界感が大嫌いだったし、死について考えることを意図的に避けていた僕は非常に感銘を受けた。

 では、「生に執着するな」というのならば、今すぐ死ねというのか。禅宗に基づいて悟った瞬間は死だというのか。いや、その部分をフォローするのが、「ありのままでよい」という「生に執着するな」の続きの部分。そして、座禅。座禅は、今の僕の理解では、死の演習というものだと思う。

 霊魂は存在しない。生に執着するな。何も考えないことにより「死」を想定した演習を行いし、死の恐怖にうちかち、ありのままに、生きつづけよ。

  • 霊魂が存在しないという感覚
  • 生へは執着するべきではないという感覚
  • ありのままでよいという感覚

 これらは僕が今まで考えていた死生観ととってもよくにている。しかし、これらは僕の中で独立した感覚だった。それを結びつけ、さらに座禅という死の演習を加えることにより、死の恐怖から解放される強力なライブラリとなる。

 加えて、なにより、僕と同じような皮膚感覚の人がいた安心感。まだ深く学んでいないので分からないが、その皮膚感覚が理論まで昇華されているのではないかという頼りがい。800〜700年も前に。オウムなどカルト教団が世間を騒がしてきた時代にいきてきた僕は、宗教というものに始めて安心感、頼りがいを感じた。

 それまでの仏教というフレームワークを利用しつつも、今の科学ともあまり相反しない、そのくせ、強力な死の恐怖からの解放力を備えた宗教。wikipediaの情報からはそんな風に読み取れた。すこし禅宗について調べてみようと思う。