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日々感じたこと、艦隊これくしょん、千年戦争アイギス、読書記録

上原あずみ『青い青いこの地球に』

 高校時代の日記を移行する作業を進めながら、「上原あずみ」という歌手とその活動について、久々に思いを巡らせました。

 自分の高校時代を語る上で、やはり「上原あずみ」という存在は欠かせないのです。「as me!」という彼女のファンサイトを運営していたからです。メモ帳でHTMLをかいたり、Perl製の掲示板を設置したりして、新曲が発売したりメディアに露出するたびにファンの間で盛り上がるための話題や場を「ファンサイト」という形で提供していました。

 体育祭を抜け出して握手会にいき、帰りの会のときまでに戻ってくるとかいう冒険をしたきっかけも「上原あずみ」でした。何度も何度も彼女の書く歌詞について共感するような日記も書きました。当時の日記を読むと自分は「上原あずみ」のことを「自分を写す鏡」のような存在だと言っています。

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そういえば、上原さんは自分を写してくれるとか、 僕あこがれだとか、前の日記で書いています。上原さんを、ライブで見たら、こんどは、 「想う人」じゃなくて、「自分自身」を写す「アイドル」として感じる事が出来ると思う。 CD聞いているだけで、自分自身を写してくれていると思う、という事は、ライブを聞いたら、 もう涙が出るかもしれない。

 等身大の感覚を、「自分」の感覚を、代弁者として世の中に訴えかけてくれるまさに「アーティスト」として彼女を見つめていました。「ぐちゃぐちゃとした攻撃衝動」や「無力感」といった若い感情を、デビュー時の勢いのまま未完成で不器用な歌詞と歌唱という形で表現していたのが本当に魅力的でした。

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ただ、完全に相違し、これから上原あずみが書くことは無いだろうという分野がある。 尾崎豊は、男と女。セックス。つまりは、性についても多くの詩を書けた。

 別の日記で、上原あずみの表現に足りないのは、「リビドー」であると指摘しながら、尾崎豊のイメージと重ねていました。高校生の「等身大」を正確に写すということになると、やはりそういう側面の描写は欠かせないものだと思ったのですね。

 数年間、活動が活発でない時期がありました。おそらくボイストレーニングや創作物の溜め込みなど、シンガーソングライターとしての充電期間だったのでしょう。そして、2005年、2006年にまた精力的に活動する期間があります。この時期の上原あずみは、歌詞も歌唱も非常に安定していました。歌詞の毒気はどことなく強引に盛り込んだような「らしさ」をどうにか出そうと頑張ったけれども、どうしてもきれいにまとまってしまった感じ。歌唱のほうは、テクニックこそないものの、声量、音程ともに安定し、声楽はまなんでいないけれどもボイトレした普通の女の子という感じに。ちょっと陰要素がつよい歌をうたう普通のアイドル歌手でした。

 2006年に歌手としての活動はほぼ終え、その後は、「アンダーグラウンド」(インディーズとか、売れないとかそういう意味ではなく文字通りの。)な方向でのご活躍となったようです。それは僕が「彼女には描けない」とかつて指摘した表現でありました。そのことを知ったときそのような指摘をしたということをすっかり忘れていましたから、アイドルとしての終焉の一つの形を、とても身近なところにみてとても悲しい気持ちになったのを覚えています。

 今から振り返ると、代弁者としてリスナーの前にあらわれ、じょじょに活動を進めていくにつれて綺麗にまとまっていってしまい、ラストは、アングラに身を染めてしまうという、衝動や無力感といった若い感情表現の帰結を、アーティスト活動を超えて、その人の人生、前身全霊をかけてみせてくれたという意味で、本当に僕にとっての尾崎豊であったんだと、そう思ったりします。